書類の小さな文字を指でなぞる。報告書の一部であるらしいそれは、一応チェックしてくれと渡されたものだった。普段ならこんなことはやらないが、いま自分の役割はこの組織でドクターと呼ばれる人物の秘書である。未だにどうしてこんなところにいるのかわからないけれど、思いのほか心は冷静に、並べられた文字をなぞった。
「ええと……ここですね。漢字の変換間違いでしょうか?」
途中から指の動きが視線についていかず、オレは手を止めたまま活字を追った。それはオレにもわかるような誤字で、しかしただの誤字といえど、文章を記しているもの自身にとってはなかなか気づけないものもある。だから他の視点を持った人間に見てもらうのだ、と前にドクター自身が言っていた。とても合理的で確かな方法だ。
「……なるほど、確かに。この速さでこれに気づくなんて、さすがだな」
ドクターは執務室の机を挟んだ向こう側で、口元をふっと緩めさせた。
「た、大したことないですよ」
本心だった。ときどきロドスの皆はオレを褒めてくれて、あまつさえ預言者などと言われることもある。だけれどオレはそんなに大層な人間じゃない。それでも、この身体が人の役に立つというのは決して悪い気持ちではなかった。
「他に間違っているところは?」
「あとは、ううん……たぶん大丈夫です。お返しします」
「ああ。ありがとう、アドナキエル」
名前を呼ばれると、胸のあたりがきゅっと締まるような気がする。それは少し前からのことで、稀にドクターが頭を使いすぎたのかぼうっとしている顔を見るときも、同じ感覚があった。その表情がひどく印象的で、それをつい口に出したらどういう意味だそれは、と冗談めいた口調で訝しまれた。
オレはこの人のことを好きなのだと思う。ただ何も言わないのは、それが叶わないのだと知っているだけ。それにオレ自身は、この人に使ってもらえるだけでも幸せだから。
「今日はもう、戻って休んでいいぞ。お疲れ様」
その言葉ではっと我にかえり、にこりと笑みを浮かべて頷いた。
「ありがとうございます。おやすみなさい、ドクター」
何事もなく眠って、起きて、またこの人のそばで働く。いつまでこれができるのだろうか、そんなことばかり考えていた。