「アルバート、こっち」
男がちょいちょいと手招きするので行ってやると、幼い子どもがするように耳に口と手を近づけて囁いた。
「あれ。俺の上司だから、行くまで待つ」
「……んなこと……まあ、いいか。見つかっても確かに面倒だし……」
人混みの中で息を潜め、流れに従いつつ周りを伺う。俺はその上司とやらは知らないが(恐らくあまり関わりのない、内勤のほうの人なのだろう)、彼とその恋人なのか配偶者なのか、連れらしい女性は仲睦まじげに去っていった。仕事仲間である俺たちふたりがこんな休日に一緒に歩いているのを見られれば、確実にこれからの社員生活になんらかの影響はあるだろう。実際俺からしたら知らない人間なのだから、向こうも俺のことを知らないのかもしれないが。
「なんか、こういうのも楽しいな。なんとなく思い出すだろ?」
「お前、わざと言ってないか」
ちくりと刺すつもりで言うと、男はやけに楽しそうに口の中で笑った。相変わらずなにを考えているのか、外見からは察しづらい。もともと俺がひとの感情に疎いと言われたら言い返せないけれども、どのみちそれを指摘できる人間は目の前の彼以外にはいなかった。
「嬉しいんだ。お前とこうして外に行って、色々な人と出会うことがさ」
屈託ない笑顔でストレートにそんなことを言ってくるのも、相変わらずだ。……いや、あの頃はもう少し遠慮があったかもしれない。とにかくその笑顔は眩しくて、いつか彼とあの世界で会ったとき、昔の自分と重ね合わせていたことを思い出した。いくつかの出会いと別れを経験して、それでも人を信じることを選ぶ。そんな表情だ。永い時をさまよった自分は、だいぶ欠け落ちてしまったけれど。
「あ、あそこだ。俺の行きたかった店」
「……ああ」
そうだな。先程の言葉に対して小さく呟き、その逞しい手を取って足を早めた。いまはまだ、彼のように伝えることはできない。引っ張られるように斜め後ろを歩く彼はどんな顔をしているのだろう。そう思って素直に振り向けるわけもなく、俺はただそのまま目的地まで歩き続けた。