青年は甲板の隅で、静かにヴァイオリンを奏でていた。昼前の甲板は人もまばらで、それに今日は大きめの依頼やそれぞれの用事で艇を抜けているものが多く、珍しいことに彼以外の誰もそこに居なかった。背の高いヒューマン族であろう青年は、艇のへりのぎりぎりに立ち、眼下に広がる空を眺めながら、時折身体を揺らして弦を揺らしていた。その背中にひどく懐かしさを感じ、ふらふらと歩み寄る。
「……随分と小さなお客さんのようだ」
「それは嫌味か?」
「ノンノン。感じたままを言っただけさ」
彼はこちらを見もせず言い放った。そのロベリアという男は、音に対して尋常でないこだわりがあるというから、足音で相手がどのような体格なのか聴き分けたのかもしれない。
「お前、ヴァイオリンが弾けるのか」
「まあ、オレも昔は色々……ね」
も、という言葉に含みを感じさせる。そういえば昔、楽団に所属していたうちのひとりが、はじめは親に習い事をさせられたのだと語っていたものがいた。彼もそうかもしれない。ロベリアは言い終わるなり演奏を再開して、静かで綺麗な音色を空に響かせた。彼自身の性質からは考えられない音だ。掛け値なしに上手な演奏だった。きっとこの男は、何をやってもそれなりに習熟してしまうタイプなのだろう。やがて曲らしき一連のフレーズが終わると、ロベリアはヴァイオリンを肩から下ろすとこちらに向き直った。
「カッツェ、元楽団指揮者のキミに聴いてもらえるなんて光栄だよ。どうだった?」
「……普段からやっていないなら、十分すぎるほどの練度だ。ルリアたちにも聴かせてやったらどうだ」
「そうだなあ、考えておくよ」
何も考えていなさそうな笑みを浮かべると、ロベリアは木の柵に腰掛ける。ヴァイオリンは手早くケースにしまわれ、同じく柵に立てかけてあった。音楽、が彼を救うことはできなかったのだろうか、とふと考えた。何を思おうとも詮のないことだ。
「そろそろ昼食だが、お前はどうする」
「もうそんな時間か。あのお嬢さんはどこに?」
「先に行ってもらっている。私は少し外の空気が吸いたくて」
「そうか。もう良いのかい?」
「予想外ではあるが、良い演奏を聴くことができたからな」
行くぞ、とカッツェリーラは踵を返して艇内への扉に向かい歩き始めた。ロベリアは特に何も答えることもなく、ヴァイオリンのケースを持って後ろをついていく。歩きながら、ふたりの頭には先ほどの演奏がそっと寄り添っていた。