始まりがいつだったのか、もう思い出すことができない。そう昔のことではないはずだが、恐らく自分でそれと意識していなかったから。思い出せないのであればもはや出会いの日が始まりだったと考えることもできるのかもしれないが、それはそれ、これはこれだ。そもそも人を好きになる瞬間なんて本当にあるのだろうか。本当は出会ったときから心は決まっていて、多からず少なからずと触れ合うたびにそれに気づいていくだけなのではないだろうか。
その吸い込まれそうな黒い瞳を見据えるたびに始まりというものは薄れていってついには無くなってしまい、始まりがなければ終わりもないのではないか、とまで思うときがある。あるいは冷たくなるときまで。心が心として機能しているうちは。胸のうちでそんなことを考えると知ったら、もし口にでも出せば、怪訝そうな顔をするだろうか。一笑に付すだろうか。呆れてものも言わない、ということも考えられる。そんなことを思うほど彼は千変万化の顔を持っていて、それが興味深いという感情もあった。
「冷たい」
秋の夜長だ。彼は俺の頰に触れて、そう率直な感想を告げた。また目が合って、胸が脈を打つ。俺はどんな顔をしているのだろう。黒い瞳に映る自分はさすがに見えない。あんなのは絵画の中だけだ。
「そうか?」
「ああ。ちゃんと飯食ってるか?」
「うむ……確かに最近は、あまり睡眠も取れていない」
「もしかして、だから俺のところにきたのか」
そう言われて、それがすべてではないがまったく外れているというわけでもなく、反論しようとした言葉を飲みこんだ。絵に没頭するのも良いが、あまり根を詰めないように。日頃言われている言葉だ。
「……だが、ここにいると、これはこれで色々と考えてしまう」
「……なにか言った?」
知らず口に出ていたらしい。いや、と短く答えて誤魔化した。彼はなにか言いたそうだったが、やがてゆっくりと俺の肩を抱き寄せ、気がつけば彼の膝の上に頭を乗せられていた。
「絵のことに夢中な祐介も、俺は好きだけどな」
頰を撫でる手がほどよく温かくて気持ちいい。始まりも終わりもなく、いまだけがそこにある。次第に瞼が重くなってきて、日頃の疲労も溜まっていたのだろうか、頭上で謳う声を子守唄にして、意識は闇の中へ落ちていった。