思えば、自分から積極的に人に触れたことなどなかった。そもそも触れたいと思ったこともないし、そんな人物に出会ったこともない。のだった、これまでは。
彼はなにもかも自分とは違って、それだけなら周囲には掃いて捨てるほど存在したが、どうしてか興味を惹かれる。ふわふわと癖のある黒い髪も、意外としっかり見ると大きくて、これまた真っ黒い瞳も。
しかし、どうやって触れたらいいのかはわからない。こうしてカウンターの隣に座って、少し邪険にされつつくだらない話に付き合ってもらいながら。カウンターの向こうにはマスターが——こちらにはほとんど興味なさげにテレビを眺めているが——いることも、それを実行するには障害のひとつだった。
「……少し、ブレンドの量を調整してみたんだが」
「ん? ああ……確かに。ちょっと苦味が強くなってるね」
「お前が前にそのほうが好きだと言ったから。ただ苦すぎても駄目みたいだったから、少しだけいじった」
俺から視線を外してどこか言いにくそうに話す彼は、その頰をうっすらと上気させていた。胸のうちで黒いものが頭をもたげる。元々そこは実際、まぎれもなく真っ黒なのだけれど。
「美味しいよ。腕も上がってる」
素直に味の感想を伝えると、ほのかにその朱が強みを増した。この男はいったい俺のことをどう思っているのだろう、疑問がわいたが、そんなことを考えても仕方がない。そもそも彼が見ているのは俺ではなく”僕”だ。
「あ、ちょっとそのまま。動かないで」
気がつけばその言葉が出まかせに口から吐き出されて、彼の頭、正確には黒髪に触れていた。見た目ほど柔らかくなく、どちらかというと硬い。軽く指先で弄んでから離すと、彼は怪訝そうに俺を見た。
「何か?」
「いや、塵がついてて。取れたから大丈夫」
いつもの微笑みを向ける。時折自分でもよくぺらぺらと心にもないことを喋れるものだと思うが、そんな心のうちは誰も知らない。怪盗団のリーダーであるこの男は、少し自分に対して警戒しているのかそれとも単純にそりが合わないのか、若干当たりが強いので怪訝な顔を崩さなかった。
「そうか。……それ、飲んだら帰りなよ」
ぽつりと言って、そのまま彼は席を立つ。いつの間にか傍にいた黒猫がその肩に器用に飛び乗って、何やら小さな声で喋りながら奥の階段の向こうへ消えていった。他に客もなく残された俺はとりあえずコーヒーを啜る。
「振られたな。それ美味いんなら、お代はきっちりもらうぜ」
いままで興味なさげにしていたマスターが、悪戯っぽい笑みでそう告げた。