飛び込んできたのは、ひとりの少女だった。執務室の扉は基本的に誰でも入れるようにしてある。それはドクター自身が許可したからだが、こうして子どもが来るようなことは予測されていなかった。ロドスという組織、艦船のつくりでいえば、あり得ないということも無かったのだが。
「う……」
少女は、ちょうど扉に近い資料棚のそばに立っていたドクターの足に抱きつくと、頭上に生えた、金色の毛に包まれた耳を垂れさせてその顔を見上げる。大きな瞳は潤み、尻尾は床に先がつきそうなほど垂れ下がり、まだ泣いてはいないようだが時間の問題だろう。ペッローらしき彼女の様子を眺め、ドクターはしばし固まった。鎖骨あたりに源石の欠片が見られるため、医療部で世話をしている感染者の子どもなのだろうが、基本的にドクターは彼ら彼女らに接することがない。ただでさえ忙しく、業務内容的にも関わる機会がないためだ。有り体に言えば対応に困っていた。
「……私のおやつでも食べるか?」
やっとのことで絞り出した言葉は、なんとか少女に響きはしたようだ。彼女はこくりと頷く。ドクターは腰を折ると、足に抱きつく細い腕を柔らかく解き、小さな身体を抱き上げるとソファに運んだ。
すると、一度閉じた扉が再び開く。
「ドクター、頼まれていた書類を……あれ」
サンクタの青年は執務室内の状況を見ると、金色の目を丸くしたが、すぐにそのままソファまで歩み寄る。
「アドナキエル。えっと……ありがとう、書類はそこに……」
「あ、はい。……すみません、失礼しますね」
青年はドクターが指した通り、ソファの前にあるテーブルの上に持ってきた書類を置いた。そして短く断り、きょとんとする少女の隣に座る。
「天使のお兄ちゃん……」
「覚えててくれたんですね。……ええと、君は今日……定期検査、ですか?」
「……うん」
少女は素直に頷いたが、大きな瞳を伏せて小さな口をつぐみ、黙ってしまった。まだ涙は堪えられているようだ。定期検査か。ドクターはその言葉の意味を考えながら、二人の様子を見守ることしかできない。自分の身体の状態を知るのが恐ろしい、のだろうか。
「……大丈夫、って言っても怖いですよね。俺もそうでしたから」
「お兄ちゃんも……?」
「ええ。……ドクター、この子は俺が連れて行きます」
「いいのか? 何か申し訳ないが……」
「俺もあまり……こういうのは得意じゃないので、アンセルのところに」
そう言うと、アドナキエルは遠慮がちに微笑んだ。ドクターは一抹の罪悪感を得たが、自分が対応するよりは確かに彼に任せた方が良いだろう。彼と同じ部隊であるアンセルの手に渡るとなれば、より安心感もある。同時に安堵を覚えた。
「すまないな。頼む」
「はい。……じゃあ、行きましょうか」
少女もアンセルの名を聞いたことで少し安心したのか、未だ表情は曇っているものの、自身を抱き上げる腕には抵抗しなかった。幼い子どもを抱く姿は、たとえその光輪が傾いていたとしても、やはり物語にうたわれる天使のようだった。
執務室の扉が閉まり、嵐のように過ぎた出来事が再び静寂をもたらす。なんとなく居心地の悪さを感じたドクターは、それを紛らわすために独り言を呟いた。
「……さて、仕事の続きをやるか」