伸ばす先に

「んじゃあ、偉大な盗賊様に乾杯!」
……声がでかい」
「いいじゃねえか。周りも騒いでるんだしよ」
「誰が聞いてるかわからん。前に話しただろう」
テリオンはそう言って、アーフェンに強引にぶつけられたグラスを傾ける。中身を喉に流し込むと、味は苦く冷たいのに熱いものが胸へと降りていく。卓を挟んだ向こう側で笑う男は、また大きな声で語った。
「あんまり気にすると、その方がマジっぽいぜ?」
……考えてるのか考えてないのかわからんな」
ひとつ溜め息をつき、テリオンは軽く周りを見回す。この騒がしさは、何か特別な祭り事をしているためらしい。なんでもこの街の伝説にまつわる偉い人間が生まれた日だとかで、アーフェンが色々と情報収集をした際にそのことを何度か聞かされた。その人間は神の子として人々に恵みを与え、ときには厳しく戒め、なんでも罪人として死んだ3日後に蘇ったらしい。アーフェンはなんだか面白げに聞いていたが、テリオンにとってそんな荒唐無稽な話はどうでもよかった。結局それに関わる宝などもなさそうであったし。
酒場の客はみな笑顔で賑やかにしており、外では雪が降っているというのに熱気すら感じられる。自分ではああ言ったが、実際この騒がしさではろくに情報収集もできまい、とテリオンは思った。自分には関係ない大昔の人間の誕生日でよくここまで騒げるな、とも。
……もう飲み干したのか、薬屋」
「うん? まあな」
なんとなく卓上に視線を戻すと、向こう側のグラスが早々に空っぽになっていた。アーフェンの酒好きであることは、出会ってそう長くないうちに知ったことの一つだ。
「飲みすぎるなよ」
「わかってるって」
へへ、といつものように笑ってバーテンダーに次のものを頼む。完全に場に乗せられているな、とテリオンは浅く溜め息をついたが、不思議と不快な気分ではなかった。

果たしてその心配も杞憂となり、珍しくそれなりのところでアーフェンは宿に戻ることを提案した。テリオンはそれほど呑んでもいなかったが、それを受け二人で会計をして依然騒ぐ酒場をあとにする。外に出ると入ったときと同じく雪が降っており、冷たい空気が少し火照った頬に心地よかった。
「楽しそうだなあ」
行き交う人々を眺めてアーフェンは呟いた。それはどこか他人事で、人の感情に影響されやすい彼らしくもないな、とテリオンは思う。成り行き上少なくない時間をともに過ごしてきて、このわかりやすい男のことはほとんど理解したような気がしていた。
「おい」
声をかけて、おもむろに手を握る。
「ひゃ!?」
……なんて声を出してるんだ」
「や、冷てえし、急に触んなよ!」
ひとつ年下の男は目に見えて動揺し、その頰の赤さが酔いのせいなのかわからないくらいだ。寒空の下でもアーフェンの手は温かく、持ち前の体温の高さを保っていた。対してテリオンは体温の低いほうで、その差はより互いの温度の違いを際立たせる。冷たいだろうにアーフェンはその手を振り払うこともせず、宿への道を足早に急いだ。
「早くあったかいところに行こうぜ」
「ああ……
引っ張られるように続くテリオンは、自分でもその手を伸ばした意図をはかりかねたまま、同じように足を進める。

昨夜も泊まった宿の部屋は、勝手がわかっているので過ごしやすい。アーフェンが雪の残る上着を脱ぐ間に、テリオンは手早く部屋の明かりと暖炉の薪に火を点けた。パチパチと弾ける音を聴くと、どこか落ち着くような気がする。そう考えながら、テリオンも着ているポンチョを剥いだ。
「火の扱いはさすが、得意だな」
「褒めても何も出んぞ」
なにが面白いのか笑みを浮かべる男に、さきほど見たような翳りは見られない。気のせいだったか、と思いつつも、テリオンの手にはまだ温かい感触が残っている。あの体温の奥に、この男にも冷たいなにかが宿っているのだろうか。
「んー。風呂は明日の朝でいっかな……
身軽になり、広くもないのですぐに上がってきた部屋の温度を感じつつ、アーフェンは背中から寝台に身を預けた。寒いところから暖かいところへ入ると、自然に眠くなる。酒が入っているのなら尚更だ。
少し微睡みながら、アーフェンはゆったりと口を開いた。
……あのさ。なんで、手なんか握ったんだ? テリオン」
…………さあな」
テリオンはテーブルに肘をついて、身体から外した短剣を鞘ごと弄ぶ。二人が旅を始めてから、いつの間にかそれなりの時が経った。始めはアーフェンのお節介からで、テリオンとしても面倒ごとに巻き込まれた中に薬師という同行者は、少なくとも利益になるものだと思えた。それに彼の誰とでもそれなりに仲良くできてしまう性格は情報収集に丁度良く、などと利点を連ねてもしかたないが、こうしてテリオンが旅の目的を果たしたあとでも、なんとなく行動をともにしている。
そのままテリオンが黙っていると、アーフェンは訥々と言葉を並べ始めた。
「雪を見てたら、思い出しちまって」
それはアーフェンが薬師としての腕を磨く途中で出会った男のことだった。出会った場所こそまったく違うところだったが、彼はどうやらフロストランドの——このあたりの出身だったのだ。彼に起こった出来事は、起こりうる理不尽であり、悲しい現実だとテリオンは思っていた。
「俺にできるのは、傷ついた人や病んだ人を治すことだけだ」
……そうだな」
「そんで、それにすら限界はある」
意図を測りかね、テリオンはそれを語る男のほうを一瞥した。横たわって両手のひらを後頭部にまわし、表情を伺うことはできない。しかしそれは見えないようにしているのだと、想像することはできた。
「あんなに賑やかにしてた街の人たちも、簡単に死んじまうんだな、って」
部屋は暖かいのに、す、と冷えるような心地がする。
……わかってんだけどよ」
「らしくないな」
「それも、わかってる」
いつになく静かに呟くと、アーフェンは頭から手を離してごろりと横向きになり、テリオンに背中を向けた。彼は案外よく泣く男で、栓のないことにまた涙しているのかもしれない。その姿はある種盗賊には眩しくも見えたが、同時に哀れでもあった。
……神の子は、人に奇跡を与えたという」
おもむろにテリオンは椅子から立ち上がると、アーフェンの横たわるベッドに腰をおろした。そしてぽつりと呟く。昼間に情報収集をしていて聞いた話だが、その場にはアーフェンも居たので、知っていることではあるだろう。そう知りながらも、言葉を続けた。
「あるときは動かなくなった人の脚を治し、盲目の人間にすら光を与えることができたと。……所詮伝説らしい、突拍子もない話だ」
アーフェンは相手に背中を向けたまま、何も言わずに聞いている。どんな薬でも回復魔法でも、死んでしまった神経や失明は治すことができない。それはきっとこれから技術が進歩しても難しいことなのだろうと、何より薬師として理解していた。
……が、そいつはこの世から姿を消した。それがなぜかは知らんが」
そこまで言って、テリオンは横へ倒れベッドに身体を預けた。背中が触れ、アーフェンが不貞腐れたような調子で抗議する。
……自分のとこで寝ろよ」
「案外それは、自分の能力に限界を感じたせいかもな」
「なにが言いたいんだ?」
……できることに限界があるのは、誰でもだ。俺がこんな生き方しかできなかったのも」
ぽつり、と最後に呟いた言葉は無感情で、それがより感情的なもののように響いた。感情を捨てているようで、どこか捨てきれないでいるのだった。
……くく……
「なにを笑っている」
「あんたが慰めてくれるなんて、珍しいと思ってよ」
……そんなつもりはない」
アーフェンは笑いをかみ殺しきれず、ついには吹き出した。
「そりゃ、ないだろうけどな……ああそうだ、俺が勝手に勘違いしてるだけか、はは」
茶化すように言いながら、先ほどまでと別人のようにけらけらと笑う。テリオンからその表情は見えなかったが、背に伝わる振動から、その笑いが空元気でないことを感じていた。
……なあ、テリオン」
「なんだ」
ひとしきり笑ったアーフェンは、明るく静かな声で隣の男の名を呼ぶ。テリオンはいささか辟易しつつもそれに答えた。
「俺は、あんたを守る」
……は?」
「わかったんだ。あんたには俺が必要で、俺にもあんたが必要だって。それに、俺の仕事は目の前の人を助けることで、いつも隣にいるのはあんただ。だから」
——待て待て、もういい」
聴いていられない、と青年は言葉を遮る。普段はやたら照れ屋で直接的な言葉を避けるくせに、面倒なところでまっすぐな男だ。これも酒のせい、なのかもしれない。思えば他でもないテリオン自身が、先ほどあんなに口を出してしまったのも。
というか。
……その言葉、本当に意味がわかって言ってるんだろうな?」
「へ? 別に変なとこなかっただろ」
ああ、そういう男だ。わかっていながら、いや理解しているからか、テリオンは閉口した。意識してしまうこと自体が、自分の中に特別な感情があるためだということには気づいていない。なにかもやもやした、正体のないものを胸のうちに感じながら、目を閉じた。
「覚えていろよ、アーフェン」
「だから、なんのことだって……んん?」
微睡みつつある意識のなかで、いつもの響きと違うものを感じたアーフェンは、それに突っ込もうとしてやめた。テリオンが自分の名前を呼んでくれたことは、思い出せる記憶にはない。しかし人に興味のないことを装う彼だから、つつけばもしかしたら二度と呼んでくれないかもしれない。
……へへ」
「なんだ……また笑って」
「なんでもねえよ」
そして青年は、宿へ帰る途中に握られた手の冷たさを思い出す。あのときは冷たさに驚いたが、それを振り払えなかったのは確かに温かさを感じたからだ。会ったときから不思議な雰囲気のある男だとは思っていたが、いま抱いている気持ちがなんなのかは、アーフェン自身にもわかっていなかった。幼馴染に感じる深い友情とは違う、もっと複雑なもの。
「な、手出せよ。あっためてやる」
「いらん」
「つれねえなあ」
暖炉にくべた薪がそろそろ炭になり、火花を散らす音を立てなくなる。部屋の明かりもだいぶ小さくなっており、このフロストランドでは当たり前だが、外はまだ雪が降っていた。宿への道で未だ続いていた街の喧騒も、すっかり遠くなってしまったように思える。
アーフェンは上半身を起こすと、足の下の方に畳んであった掛け布団をひっぱりあげた。テリオンは酔いのせいもあり動くのが億劫で、布団を掛けられるままになる。
「んじゃ、おやすみ」
……ああ」
言って、互いに目を閉じた。手を握らなくとも、合わせた背中から体温は伝わっていたのだった。