「ウマタロウ、ほら、あーん」
「……いい加減帰るぞ。ヒロシ」
完全に出来上がっている、と気づいたときには遅かった。頬杖をついて午太郎は目の前に差し出される冷奴のかけらを眺める。予算が出た祝いにと言うから酒を飲むのを許可したらこれだ、と若干辟易しつつも年上の相棒の妙に幸せそうな顔を見ると、なんとなくそれが麻痺してしまうのだった。
「なんだよ。照れなくたっていいだろ」
「照れてない。それくらい自分で食え」
すげなく却下された博志はぶつぶつ文句を言いながら箸の先を自分の口へと持っていった。彼が咀嚼する間しばし二人は静寂に沈み、周りの喧騒に包まれる。誰もが博志のようにアルコールに溺れていて、他人のことなど気にしていない。例え男二人で恋人がやるようなことをしようとしていても。
はあ、と一つ溜め息をついて、午太郎は炭酸飲料と氷の入ったグラスをからから揺らした。未成年なので酒は一滴とて飲んでいないが、どうも自分もいつも通りじゃない。空気中に飛んでいる成分と充満した陽気のせいなのだろうから、やはりそろそろこの場を出たくなってきた。そしてあの研究室に二人で帰るのだ。そっちで続きをしても良い。などと考える時点で、と気がついたけれども、思考がループしてしまいそうになるので無理矢理打ち消す。
「それにしても、ウマタロウってほんとやるときはやるよなあ」
「いつもだろ。お前がそういうとこ不器用なだけだ」
「うーん……否定できない」
「……まあ、それがお前の美点でもあるがな」
己の言葉に少し凹む博志に、中身の残り僅かになっていたグラスを傾ける午太郎は聴こえるか聴こえないかの声で呟いた。それは実際本音であり、やはりその場の空気に当てられているのだった。結局博志に声は届かず、彼は彼でふわふわとした意識を捕まえるのに努力が必要なくらいの状態になってきて、利き手から箸を下ろす。そして、あろうことか自分のグラスに残っていた液体をぐいっと飲み干した。
「あ、おい」
反射的に手を出す午太郎が間に合うはずもなく、氷だけになったグラスを置いた博志は、下を向いて息を吐き出した。
「……大丈夫、か?」
普段の尊大な態度はどこへやら、午太郎は行き場のなくなった手を宙に泳がせて、恐る恐る相棒の顔を覗き込む。他の連中がいるのならそれに任せてもいいのだが、生憎いないものはいない。
「んー……」
「……やれやれ」
瞼は半分閉じていて、とてもまともな状態には見えなかった。連日の徹夜をしたあとに似ている。博志がそうなる場合のだいたいは午太郎も同じ状況にあるため、記憶はほとんどないし、そもそもここは研究室ではない。午太郎は店員を呼んで勘定を済ませ、そのあとにはほぼ瞼が降りかけていた博志の身体を揺さぶり、なんとか立たせた。
「……うまたろー……」
「さっさと帰るぞ。それまで寝るなよ。シックスならともかく、俺にはお前を運べない」
「……わかった」
なにが面白いのか嬉しいのか、博志はへにゃりと笑って答えると、午太郎に半分体重を預ける。どうやら肩を貸してくれということらしく、午太郎は鼻を鳴らしてその腕を取った。
冬の夜は当然非常に寒く、帰りつく頃には夜風のおかげでだいぶ身体も頭も冷えていた。そんな二人を迎えたのはいつも通りA101の音声とA106であり、ストーブによって暖められた研究室であった。もちろん湿度も過ごしやすい程度に調節されている。
『天馬様、お茶の水さん、すぐにお休みになりますか?』
「ああ、そうさせてもらう」
「遅くなってごめんよ。おやすみ、シックス」
『かしこまりました。おやすみなさい』
そう告げると、A106はこれ以上の業務もないので自ら充電状態に入った。雑多に機械部品や論文の積まれた部屋が静まりかえり、博志は冷たい空気のために幾らか冴えてマシになった頭でなんとなく一抹の寂しさを覚える。が、横でマフラーやコートを脱ぎ始める相棒に気づくと、その感覚は忘れられた。そして少しの疑問を呈する。
「……僕さ、ウマタロウになんかしなかった?」
「なんかって何だよ」
「それは……なんだろうなぁ」
「……豆腐を食わせようとした」
「へ?」
低い声で伏せ気味の唇が紡いだ言葉は、それでも博志に届いていたようだ。常人より丸く大きめの鼻の上で、瞳までが丸くなる。
「ウマタロウ、豆腐嫌いだっけ」
「そうじゃねえ!」
無理もないが見当違いの返事に思わず突っ込んでしまった午太郎は.わざとらしく咳払いをした。脱ぎ終えたマフラーとコートをまとめてデスクへ放り投げて、ぽつりと呟く。
「……つーか、帰らなくていいのか。ヒロシ」
「ん? あー……本当はそのつもりだったけど。今日はここで寝ようかな」
「ソファーしかないぞ」
「わかってるよ。……あれ、顔赤い?」
「空気中のアルコールに当てられただけだ」
ふん、と鷲鼻を鳴らす午太郎に、博志は苦笑いを返した。まったく素直じゃないんだから、とでも言いたげだ。というより表情でほぼ言っている。そんな相棒に午太郎は溜め息をついた。
「ま、今日ぐらいは許してやる」
「うーん……よくわからないけど、ありがとう」
茂斗子や蘭が聞いたら首を傾げるか呆れるであろう繋がっているようで繋がっていない会話を締めて、二人はそれぞれの寝床へ身体を横たえる。片やライバルへの対抗心を燃やすままに、もう片方は増える予算への期待を胸に、未来の展望を文字通り夢に見て夜を過ごすのであった。