「すまない、ちょっと実験室の方に届け物をしてほしいんだが」
「お安い御用だよ。持っていくのはそれ?」
「ああ。本当は自分が持っていくべきなんだが、別のところに呼ばれてしまって」
「気にしないで。君は忙しいからね、ドクター」
「頼んだよ、エリジウム」
理想郷の名を持つ男は人の好さそうな笑みを浮かべて、申し訳なさげな相手からひょいと書類の入った封筒を受け取った。このドクターという文字通り仮面を被った人物は、表情が見えないので反応も分かりづらいが、近頃はだんだんと察せるようになってきた。それじゃあ、と手を振るドクターは申し訳なさげに、忙しそうに廊下の奥へ消えていく。さて、実験室か。実験室といえば……あの友人はどうしているだろうか。
日中の実験室はほどよい喧騒に包まれていた。中を見渡して、届け物を渡すべき人物を探す。その灰色の瞳が、はたと一人の男に止まった。
「……ちょ、ちょっと!」
机に向かうその男は、片手に何かの液体が入った試験管を持ち、もう片方の手で書類に何かの情報を書き込んでいた。ほとんど反射的にエリジウムは其方へ駆け寄り、焦ったような声をあげるあげる。
「ソーンズ!」
「……なんだ。騒がしい」
ある程度短く切られた黒髪は、実験に失敗したときほどではないが乱れており、おそらく寝癖だろうと推測できた。エリジウムは懐から身嗜みを整えるために持ち歩いている櫛を取り出すと、慣れた手つきでソーンズの髪を梳き始める。
「あのさ、寝癖くらい直したら?」
「ああ……」
「聞いてないなあ、これ」
その髪は持ち主から大した手入れもされていないだろうが、持ち得た性質なのだろうか艶があり柔らかい。少し梳けば、すぐにいつもの落ち着いた髪型に戻った。ついでにそのひと房を手に取り、細い三つ編みにしてやる。エリジウムの一連の行動に対し、言葉に答えてはいるものの、ソーンズは基本的に無関心を貫いていた。というより、彼にとっては手元で行っている作業の方が遥かに重要なだけであり、決してエリジウムのことを邪険に扱っているわけではない。エリジウムはやれやれと肩をすくめながらも、そのことを理解しているためか、少し楽しげですらあった。
「あれ、エリジウムさん。何か御用ですか?」
「あ……そうだった。実は、ドクターに頼まれてこれを届けにきたんだ」
ソーンズと同じように実験室に勤務しているロドス職員に声をかけられ、エリジウムは完全に忘れていたという様子で苦笑しつつ、小脇に抱えていた封筒をその若い女性職員に渡す。彼女はお疲れ様です、と言うと封筒の中身を確認した。
「確かに受け取りました、ありがとうございます」
「大したことじゃないさ。差し支えなければ、中身がちょっと気になるんだけど」
「大丈夫ですよ。ドクターに新しい実験の許可を頂いたんです。そう、丁度そちらの、ソーンズさんが提案されて……」
自分の名前が出ていたとしても二人の会話などまったく聞こえていないかのような様子で、何かしら熱心にメモを書き込んでいるソーンズを、職員はちらりと一瞥する。
「……また危ない実験でもするつもり?」
「ふふ。少し危険ではありますが、いつも大事にはならないので……ドクターも、それがわかっているんでしょうね」
「まあ、それもそうか。僕はいつこの実験室ごと巻き込む失敗が起きないか、心配してるんだけどね」
それこそ、寝癖が直っていないなんて可愛いものだ。ただ彼は優先度が他の人とは少し違っているだけで、いつもひとりでいるように見えても、きちんと周りを見ていることを知っている。それは比較的彼と仲の良いエリジウムだけではなく、ある程度ともに働いている何人かの職員もまた理解していた。
「ソーンズ。また髪が乱れてても、今度は直してあげないから」
「ん……もう行くのか」
いつもの軽口の調子でエリジウムが言うと、ソーンズはそちらを見るでもなく呟く。そこには大した抑揚も感情もなく、単なる確認といった調子だった。
「今度、一杯奢ろう」
続いた言葉に、言われた男は灰色の瞳をぱちりと瞬かせる。ややあってその意味を理解すると、すでにほとんど緩んでいる口元をさらに緩めた。
「律儀だなあ。楽しみにしておくよ」
それじゃあ、と対応してくれた職員の女性に手を振り、エリジウムは足早に実験室を出た。決して忘れていたわけではないが、彼には彼の仕事があるのだ。廊下を歩く足音は、誰も聴いていなかったものの、少し弾んでいるようでもあった。