ウリエンジェが起きてこない。彼はいつも自分たちより遅めの起床ではあるが、朝餉の用意ができるくらいには必ず起きてきていた。いままで共同生活というほどのこともしてこなかったので、元々こうなのかはわからない。しかし毎夜遅くまで文献を読みあさり、この世界のことを調べたりしているようだから無理もなく、きちんと起きてくるだけ相変わらず真面目なやつだと思っていた。
「起こして……きましょうか?」
食卓を挟んで向かいに座る金髪に水晶の目をした少女が、おずおずと声を出す。この世界でミンフィリアと呼ばれているらしい彼女は、絵に描いたような良い子だった。毎日ほとんど決まった時間に寝起きして、言われたことをしっかりこなして文句も言わず、進んで学びを得ようとする。本人や水晶公から聞いた話、ユールモアでの生活環境を考えると、そんな風に育ったのもうなずけるというものだろう。
「いや、いい。俺が起こしてくるから、先に食べていてくれ」
「……はい。すみません」
なぜ謝る。という言葉を飲み込みつつ、俺は席を立った。背後で小さく「いただきます」と言う声と、控えめに食器の擦れる金属音が響いていた。
寝室。二階部分の下にある部屋は二つで、女の子であるミンフィリアに片方の部屋を使わせ、俺たちはもう片方の部屋を二人で使っていた。各部屋にベッドは一つずつしかなく、しかし運良くソファが置かれていたので、どちらかを交互に寝床としている。昨日は俺がソファに寝ていたので、寝台の上で長身の形に盛り上がった布団の周りに、分厚い本がいくつも散らばっていた。ちなみに俺が起きたときとなんら変わりのない光景だ。
「ウリエンジェ」
やれやれと思いつつ、呼びかけて肩の部分を軽く揺する。量の多い髪の隙間にのぞいた長い耳がぴくりと動いた気がした。おそらくは気のせいだ。
「朝飯できてるぞ。食わないなら置いておくが……」
「……んん……む……」
寝返りを打つ。言葉にならない呻きを洩らす姿はあまりにもらしくなく、妙に口元が綻んでしまう。むしろあの少女にこんな姿は見せられないだろう。いや、ある種こんな一面があるのだと見せてやりたい気もするが。
「大先生、どっちだ? 起きるか、起きないのか」
「…………起きます……」
「寝ていてもいいんだぞ。飯はさすがに取っておけないから無くなるが」
「いえ……その。灯りを、消して頂けませんか」
「ん? 構わないが……」
普通逆じゃないのか、と思いながら弱々しい声に従い部屋の灯りを消した。
「これでいいか」
「ええ……ありがとう、ございます」
眠たげな声でそう答えて、ウリエンジェは緩慢な動作で上半身を起こした。本当にゆっくりと。相当根を詰めて調査作業をしていたのか単純に調べものに夢中になっていたのか、もしかしたら俺たちの寝ている間に、あの小うるさいピクシーたちの相手をしていたのかもしれないが。訓練したおかげで多少暗闇の中でも夜目がきくので、俺はなかなか見られないだろうその表情を眺めていた。彼は闇にくすんだ金の目をゆっくり開かせ、はっとしたようにこちらを見る。
「……サンクレッド」
「なんだ、俺だと気づいてなかったのか?」
「そういうわけでは……ないのですが」
「歯切れが悪いな……」
いつも以上に。という言葉は飲み込んで、その目の前に手を差し出した。
「ほら。早く行かないと、あの子が食べ終わっちまう」
「……はい」
彼が立ち上がるのを確認して、灯りはもう点けていいか、と聞くと頷くので照明を点ける。あまり目が光に強くないのかもしれない。なんとなくヤ・シュトラの眼のことを思い出したが、あれは本当にまったく違うモノだ。違うモノだけれども、やっぱりなにか特別なものが見えているのではないかと思ってしまう。
「お早うございます。ミンフィリア」
「あ……ウリエンジェ、起きたんですね。おはようございます」
長身の男の顔を見上げ、どこかはにかむように水晶の瞳を細めて少女は笑った。その手元には少しだけ、朝食のパンとスクランブルエッグが残っている。もちろん俺とウリエンジェの分は手つかずのまま、分けた皿の上にきれいに残っていた。無造作に置いていたはずのスプーンとフォークも、いつの間にか位置が整っている。
「温かいお茶を淹れますね」
止める間もなく、ミンフィリアは弾むような調子でポットを取りに行った。椅子に腰を下ろすウリエンジェはその背中を眺めて、金色の目を眇める。その様子に先ほど寝ぼけていたときの面影はなく、俺は横顔を眺めつつ少し残念に思った。
「如何しましたか、サンクレッド」
「……何もないさ。さ、俺たちも食べよう」
いただきます、と手を合わせれば彼もそれに続く。食事に手をつけ始めるとほどなくミンフィリアが戻ってきて、いそいそと三人分のカップの用意をし、ウリエンジェがよく淹れている紅茶を注いでくれた。
「紅茶の淹れ方なんて知っていたのか?」
「えっと、その……」
「僭越ながら、私が教えたのです。ミンフィリアが、サンクレッドに淹れて差し上げたいと言うもので」
ウリエンジェが柔らかく微笑むと、ミンフィリアは気恥ずかしそうに小さな唇を結んで目を逸らした。胸がじわりと温かくなり、同時に締めつけられるような痛みが走る。俺はちゃんと笑えているのだろうか、そんな弱気なことを考えながら、カップの中身を啜った。仄かな甘い香りのあとに強すぎない苦味が喉を通り、それが不思議と心を落ち着かせてくれる。温度も低くなく熱すぎることもない、ちょうどいい具合だった。
「……美味いな」
なんと言葉を添えたものか悩んだが、結局その一言に終始してしまう。が、ミンフィリアは嬉しそうに口元を弛めて「良かった」と溜め息のように微かな声で呟いた。向かいで同じようにカップに口をつけたウリエンジェが、嚥下に喉を鳴らしてほうと息を洩らした。
「あなたは、本当に……飲み込みが早いのですね。ミンフィリア」
「そんなこと……ウリエンジェのおかげです。丁寧に教えてくれたから……」
そんな俺からしたらもどかしいような微笑ましいようなやりとりを眺めながら、朝食をつつく。紅茶に含まれる成分は色々と身体に良いのだと、ウリエンジェからいつしか聞いた気がする。同じような話をユウギリからも聞いた記憶があるが、あれは紅茶ではない、違う茶だったか。ともあれ、飯の合間に一口いれるたびに、胸がすくような心地がした。
「さて、今日はどうする? 寝坊した大先生に、講義でもしてもらうか」
「ええ……よろしければ、何時ぞやの妖精語講座が半ばでしたので……」
「冗談のつもりだったんだがな……」
「あ、あの……私は、聞きたいです……!」
珍しく自分の希望を出したミンフィリアに、ウリエンジェは笑みを深める。恐らくあれは、自分では気づいていないのだろう。
「……まあ、最近は双剣術続きだったからな。構わないだろう」
答えて、パンの最後の一切れを口に放り込んだ。素材なのか作り方なのか、妖精郷のパンはやたらと柔らかく、そして甘い。
咀嚼しながらミンフィリアのほうを見遣る。驚いたような、それでも遠慮がちな視線と一瞬かち合ったが、無意識だったらしくすぐに慌てて逸らされてしまった。
「……ありがとうございます……サンクレッド。ウリエンジェ、よろしくお願いします」
「御意に。少しでも理解に易くなるよう、私も善処致します」
そんな2人の様子を見ていると、安心感に似た温かさが胸に満たされる。紅茶も最後の一口になり、そうして短い朝食の時間が終わる。ウリエンジェを起こしに行ったせいか、なんだかすでに一仕事終えたような気分だ。
「……俺はどうしたものか」
「おや、サンクレッド。勿論あなたにも、ミンフィリアと共にお聞き頂きますよ」
「は? いや、俺は……」
「一時と言えど妖精郷で暮らすのですから、言語は各々知っておくべきかと」
にこりと微笑む。なんとなしに悔しいが正論ではあった。ここには人目を避けるために来ているのだし、人でないものの文化について学ぶべきというのも当然か。昔から身体を動かすほうが得意で、座学はどうも苦手なのだが。
「……わかったよ。一人で出れば、またピクシーたちに何をされるかわからないからな」
そう渋々従えば、黙って俺たちのやりとりを見守っていたミンフィリアがおずおずと声を上げる。
「あの……私、そろそろ食器を片付けますね」
「ああ、お気になさらず。今日は私がやりますので……」
「お前は先に着替えてこい。……俺は構わないが、その姿で講義をするつもりか?」
起き抜けに連れてきたので当然寝間着のままである男は、本当にわからないという顔で目を瞬かせた。会話は大丈夫だったがまだ寝惚けているのかもしれない、というか自分の服装に気づいていないのか。少しの間沈黙が流れ、埒があかないので俺は食卓の上の食器をまとめ始めた。
「ミンフィリア。食器は俺が片付けるから、大先生の講義ができるように用意をしておいてくれ」
「……! はい!」
なぜか微笑んで返事をしたミンフィリアが席を立ち、床に散らばった本を拾い始めるのを見届けてから、俺もそれに続く。ウリエンジェもようやく自分のすべきことに気づいたのか、珍しくやや慌てたように腰を上げた。
「そういえば、なんで今日はいつもみたいに起きられなかったんだ?」
「……私にも解りかねます」
それだけ言って、これまた珍しく黙り込んでしまった。俺の中の勘がなにかありそうだ、と囁いていたが、実際彼も人なのだから通常通りにいかないこともあるだろう、と思考を打ち切った。なんにせよ、今日はなにかと楽ができそうな気がする。