暗闇のなかで、誰かが自分を嗤う。それに伴う後悔の念、伸びてくる包帯の巻かれた腕。傷口が開いたのか血が滲んでいて痛々しい。が、男はいやに元気そうに笑いながら、俺の首を掴んで地面に押し倒した。ひやりと背中に当たる冷たいそれはまるで刃のようで、死が間近に迫っているような、そんな心地がする。声をあげることはもちろん、呼吸すらままならない、暗闇のなか。妖しく光る昏い瞳と白い歯だけが存在を示していて、本能的な恐怖に身体が動かなくなった。助けを求めることもできない。そもそもこの場にいるのは俺と彼だけだ。決して逃げられないと悟った瞬間、自分を呼ぶ声が聞こえた。
「——フェン……おい、薬屋」
揺り起こされる。灯りの消えた部屋のなか、一つの眼が自分を射抜き、夢のなかの光景と重なり反射的に小さく悲鳴をあげてしまった。まずい、と慌てて取り繕う。
「あ——いや、いまのはだな……」
「……おたく、夢を視るのか」
「へ?」
「魘されていた。それで起こしたんだが」
は、と軽く溜め息をついて、テリオンはそのまま俺の寝ている横に腰掛けた。
「もしかして、起こしちまったか? 悪いな」
「いや。この時間は起きていることが多いから、問題ない」
それに、と呟いて彼は口をつぐむ。何か続けようとしたが途中でやめたのだろう、俺はそれ以上突っ込むことはしなかった。もう夜も遅いことだし、というかいまは何時くらいなのだろう。尋ねようとしたがやめて、暗闇に沈黙が流れる。
「……寝ないのか、テリオン」
悪い夢を視たあとは、すぐには眠れない。これは誰もが経験したであろうことで、人間の致命的な欠陥である。あの悪夢は俺の記憶を反芻していた。それはできれば二度と見たくないもので。決して消したい記憶ではないけれど、あえて思い出したいことでもない。
「獲物の手入れをしたら寝るさ」
ぶっきらぼうに言う背中越しに、刃を研ぐ音がする。
「じゃ、なんでそこにいるんだ」
微かに息を吸う音がした。どうやら自分でもわかっていなかったらしい。彼は完璧主義で抜け目のない万能者のようでいて、こんな風に少し抜けているところがあるのだった。
「……大方、あの男の夢を視ていたのだろう」
「う」
「図星のようだな。わかりやすい奴だ」
「……ずりーぞ、あんた」
質問に別の質問で返され、そのうえ痛いところを突かれてぐぬぬと唸る。悪夢の原因になった事件のこともすべて知られているのだから、よほど鈍い人間でなければ推測されるのは当たり前だ。しかしそれをわざわざ口に出すものだろうか。
本当は、またあのようなことがあれば自分はどうするのだろう、と恐れている。あのとき矛先が他人でなく自分に向いていたとしたら。命を助けた人間に、命を奪われかかるとしたら。行き場のない恐怖感に駆られ、ぞくりと背筋が震えた。どうしようもなくなって寝台から上半身を起こす。テリオンはこちらに背中を向けたまま、愛用の短剣を研いでいた。
衝動的に、その首に腕を回して抱き着く形になる。俺は何をしているんだ、と思いながら、首筋に顔を埋めた。
「わりぃ。……ちょっと、こうしてていいか」
しばしの沈黙。彼の手元も動きを止めていて、顔が見えないせいもあり、時すら止まってしまった気がした。
「……邪魔にならなければ、構わない」
そう言った男の身体は温度が低く、動悸のする胸に不思議と心地よい。作業を再開した規則的な金属音も、どこか幼い頃に微睡みのなか聴いた音のようだった。
すっかり力が抜けて重くなった身体を寝台に戻しながら、なんとはなしにその寝顔を眺めた。安らかという風でもないが、どうやら悪い夢は視ていないらしい。盗賊として便利なもののひとつだが、昔から夜目はきくほうだった。
「悪夢……ね」
呟く。俺も小さい頃にはよく悪夢を視て眠れなくなったものだ。いつからかそれもなくなったが、その頃に眠り自体を怖がったせいか、外が暗くなってもすぐには眠気が来ないようになった。かといって眠りに就いても日が出れば起きるし、その後の活動も問題なくできる。きっと睡眠があまり必要でない身体なのだろう。身体がそういった動きに慣れるにつれて、夢を視ることも少なくなっていった。と言っても、まったく視ないわけではないが。
悪夢は嫌いだ。もっとも好きな人間もいないだろう。特に自分の記憶を再び視せてくるのは、どうしようもない。先ほど薬屋が魘されているのに気づいたとき、昔の自分と重なってしまった。彼が魘されるほどひどい記憶など、幼い頃に死にかけたという話か、少し前に遭遇したあの事件くらいしかないだろう——正直なところ半分は冗談であったが、本当にそうだったらしい。
俺はあの男に対してはじめから同情の念もなにもなかったし、薬屋が奴を助けると言ったときも本当はやめとけなどと言ってやろうかと思った。しかし言ってもやめる男ではないし、実際あのオーゲンという旅人に忠告されてもやめなかったのだ。それでも、ミゲルといったか、奴があそこまでやるとは考えていなかった。結局さすがに打ちひしがれた様子の薬屋にはかける言葉もなく、そもそも彼自身の問題に俺がどうすることもできない。それから彼が空元気のまま旅を再開して数日後にこれだ。
忘れたいと思う記憶ほどこびり付いて離れないもので、生真面目な彼の性格を考えれば、それはあえて背負って行きたかったのかもしれないが。あの凄惨な事件は、どちらにしてもこの男の心に影をさしたままでいる。あれはもうこの世にいないというのに。
変に考えすぎて目が冴えてしまい、ふと、手入れの終わって鞘に収めた短剣へ視線を落とした。
……俺もひとつ間違ったら、あんな風になっていたのだろうか?
過ぎった思いを、無意識のうちに首を振って払う。起こらなかったことをあれこれ考えたって仕方がない。それにいまは不本意ながら、可笑しいほどに人の好いこの男と旅をしているのだ。間違いがあれば確実に面倒なことになる。いつの間にやら、この二人旅にも慣れてしまったものだ、とひとり苦笑した。
ずいぶんと長い間ひとりでいたことが、この前のことなのにひどく昔のように感じる。彼がやたらと騒がしいせいだ。ダリウスのやつもここまでお喋りではなかっただろう。
「おやすみ」
ぽつりと呟いたが、当然返事はない。しかしいまはそれで良いのだった。彼がしっかりと眠れている証なのだから。