その日はなぜか、なんとなくあの砂の家に帰りたくなって。だいぶ石の家にも慣れていたところだったが、あの冒険者や皆の顔を見ていたら、なんだか懐かしくなった。それはもうある種の帰巣本能のようなものだ。帝国の襲撃があったときのことはあまり思い出したくないが、それも含めて色々な思い出がある。ベスパーベイを訪れると、当たり前だがそこは何も変わっていなかった。水平線の向こうに見える夕日を眺めていると、どこか切なくなる。空の景色はなにも変わらないのだということが、より一層胸を締めつける気がした。
特に誰に声をかけることもなく、俺のほうもすっかり姿が変わってしまっているので声をかけられることもなく。建物に入ると階段を降り、扉を開けた。そのまま俺は左側に置かれた椅子のひとつに腰を下ろす。あの頃、よくここに座っていた。原因の知れない疲れと、得体の知れない記憶の混濁と、そこからくる自分や周りに対しての疑念。あの冒険者が声を掛けてくれたが、何度そうされてもいつも通り笑って返していた。懐かしい。あまり……思い出したくないことだが。
「……お疲れのようですね」
低く、穏やかな声に顔を上げると、地味なカウルに身を包み、ゴーグルで目元を隠したエレゼンの男が立っていた。いや、誰であるかはちゃんとわかっている。ただこの風景が、どうしようもなく懐かしくて。俺がこの地を離れていた間がなにもなかったかのように思えてしまう。ウリエンジェ・オギュレは、無造作に手を差し出した。
「……ああ」
その手を握ると、俺はそれを支えに立ち上がり、歩き出す男の背に付き従った。
「本当に変わらないな、ここは」
砂の家という名前どおりと言うべきか、一応共用で休むための寝室がある。寝室とは言うが部屋に寝台がいくつかあるくらいで、実際はなんだかんだと出張が多かったので使う機会は少なかった。基本的に立場があり常駐していたミンフィリアやウリエンジェには自室が用意されていたし、暁の血盟に協力している他の連中も、ここを使っているところはたまにしか見なかったように思う。そもそも俺は基本的にウルダハにいて、ときどき戻ることはありつつも泊まるのは別の場所、というほうが多かったのだ。それにはまあ他にも事情があるのだが、それはそれとして。結局閑散としているところを見ると、いまもあまり使われてはいないらしい。妙に綺麗な気はするが。
「任されていますから」
俺は寝台に身体を横たえ、ウリエンジェは横の椅子に腰掛けてなにやら分厚い本に目を通している。感情の起伏の少ない彼が冗談めかして言った言葉は、どこか得意げに、寂しげに響いた。
ゆったりとした時間が流れていく。窓のない地下では風の音もしないし、頁をめくる音だけを聴いてとりとめのないことを考えていると、自然と瞼が重くなってきた。俺はいったいここに何をしにきたのだろう。休息を求めてきたのか、特定の存在を求めてきたのか。彼の隣は、何もかも忘れられるような気がして落ち着いた。海の底のような穏やかさと断絶。
「眠らないのですか。お疲れなのでしょう」
「いいや、……」
見透かしたような言葉。いつもはひどく周りに対して鈍感なようでいるくせに、時折ちくりと刺してくる。
「眠れませんか? ここでは」
「……違う」
ウリエンジェは笑わない。ただ頁をめくっていた手を止めると、本を閉じる。おもむろに俺の寝ている寝台に腰を下ろし、長い指の背で俺の髪を撫でた。少し居心地の悪くなった胸が、簡単に落ち着いてしまう。俺はこの男に翻弄されているのか。
「では、目を閉じて……」
それから何か色々と言っていたような気がするが、どうせいつもの回りくどい言い回しだ。どこか唄うようなそれを聴いていると、大きな手が左目ごと視界を塞ぎ、俺は言われた通りに目を閉じた。不自由だった景色が暗闇に包まれる。安心感があった。いつからか闇を恐れていた、そんな気持ちを溶かしてくれるような温かさが。
ほどなくして、微かな寝息が聞こえ始める。ウリエンジェは男の目を塞いでいた手を退けると、サンクレッドの頭の横に突いた。無意識にゴーグルをはずし、眺めた寝顔は安らかなものに見えた。彼が自分の手で安心したのだ、と思えば、さすがに自惚れのような気がした。
他人の感情の機微には疎いと思っていたが、守るべき存在を失ってからの彼はどうしようもなく、痛々しく感じられる。常に焦燥を胸のうちに秘め、それを隠そうといつものように笑おうとしていた。恐らくヤ・シュトラとあの冒険者も気づいていただろうが、彼自身の問題であると静観しているのだろう。それは正しい選択だと思える。彼とて大人の男なのだ。
それでも、眠るときは安らかでいられればと想わずにはいられない。彼がここにきたのは意外だったが、どうしてか来るような予感があった。実際に彼を見つけたときは、多少なりと驚いたけれども。
その隠した左目にはなにを秘めているのだろう。激情か、痛みか。
気がつくと、浅黒い頰に手を添えて目を閉じ、唇を奪っていた。それは決して柔らかくはなく、以前のように手入れもしていないのだろう、乾いている。それでも温かかった。人の温もりだ。
胸をとん、と叩かれる。目を開けると、榛色の瞳が驚きに見開かれていた。たぶんこのまま解放したら、なにをしているんだお前は、などと言われるだろう。ウリエンジェは予測しながら、少し音を立てて唇を離した。
「なにをしているんだ、お前は」
「……ふ」
予測通りの言葉が放たれ、思わず笑みが零れる。サンクレッドは思いっきり怪訝そうに寝台の上で首を傾げ、やがて目の前の男から目を逸らした。ふっと笑みを消し、男はぽつりと呟く。
「……わかりません。私にも……」
「そんなわけあるか……」
サンクレッドは寝返りをうった。眠れと言ったのはそちらだろうに。と、口にこそ出さないが、理解しがたいといった感情がその背中から伝わってくる。ただ、ウリエンジェ自身にも本当になぜそうしたのか、理由はわかっていなかった。キスとは主に恋人がする行為で、文化によっては恋人のみでなく家族や友人などの親しい間柄の挨拶、愛情表現にも使われる。彼にどう言葉をかけようかと無駄なことを考えているうちに、サンクレッドが先に口を開いた。
「こんなところに居ていいのか?」
「それは……どういう」
「俺なんかに構ってていいのか、ってことだよ」
言葉に詰まる。なにかがおかしいと思う。もちろん、砂の家の執務長として働いているウリエンジェが暇なわけがないし、自身はその責務を重責と思ってもいない。それでも、突然やってきた彼の側にいたいと考えたのだ。少しでも安らかに眠ることができればと。しかしそれだけでは、先ほどの行動には説明がつかない。思考がぐるぐると堂々巡りに回っていた。
「ウリエンジェ、お前は……」
「サンクレッド」
寝台に手を突いた格好のまま、ウリエンジェは静かに男の名を呼ぶと、己の肚をくくった。
「私があなたに抱く感情が、おそらく仲間に対するものとは違う……と、気づいたのは」
背を向けたままの俺の言葉を遮って、独り言のように語り始める。なんだか嫌な予感がしたが、彼の口からそれを聞いてみたいような気がした。色々と、色々な人に申し訳ないことがあるけれど。他でもないウリエンジェが語ろうというのだから、それは聞いてやらねばならない大事なこと……かもしれない。
「あなたを失い、ミンフィリアや他の『暁』のみなさんを失い……調査の仕事に明け暮れている時分でした。ちょうど……いまのように、静寂に包まれしこの部屋を見て……理由はわかりませんが、あなたのことを思い出しました」
要領を得ない。俺はただ押し黙っていた。この男の話が回りくどいのはいつも通りで、結論を先にきっぱりと述べれば良いのに。仕事柄様々な人間と関わってきたが、書物が好きな人間にはそういった話し方をするものが多い。と言ってもここまで詩的な表現を使うようなのは珍しいが。
「霊災の後、そしてアシエンに操られて後……あなたは少しずつ……変化していきました。いくつもの中には、あなたにとって良き変化も、悪しき変化もある……」
ちり、と頭の中で火花が散る。焦燥だ。口を挟もうとしたとき、
「……私は。何も変われていない、と」
思わず、その顔を振り返った。滅多に見ることのない素顔は、どこか寂しさに満ちていて。
「そんなことはない。お前は」
先程挟もうとした言葉と、まったく別のものを口走ってしまった。安い同情でしかない、本人からすれば慰めにもならない一言を。
「しかし、だからこそ……あなたに焦がれた。逢いたいと、そう思いました」
金色の瞳に射られ、今度こそ俺は黙った。というかよく考えたらさっきから何を言っているのだ、この男は。話が前後してわかりにくい。遠回しなくせ、唐突にまっすぐにものを言ってくる。観察すれば、額に汗が滲んでいた。
「私は、あなたのことを追っていたかった。その感情は、おそらく」
「……それは、違うだろう」
「違うのならば、このようなことをしたいと考えるでしょうか……?」
俺の言葉を遮り、それでもどこか言いにくそうに呟くと、再び頰に手を添えて触れるだけのキスをした。音もなく、静かな。それはいかにもこの部屋と男に似合いのものだった。
「……わからないよ。俺には、なにも」
「好きです、サンクレッド」
ああ、封じる前に言われてしまった。俺はなによりもそれを避けていたのに、いまどき珍しいくらいストレートな言葉で。彼らしくもないが様子や口調を鑑みるに、慣れないことに対していつものペースが自分で通用しないのだろう。
わかってしまう。この男は俺と同じで、もう後悔したくないのだと。
「それに俺は、なんにも変われちゃいない。いいのか、それで」
そう尋ねれば、彼は驚くほど美しく微笑んだ。それがすべての答えになっているようで。結局この男は俺が好きなんていうことを、どこまでも大真面目に言っているのだ。
わかっている。他人の誰かを好きだというのに理由など必要なく、ただの方便にすぎないのだと。この俺が、一番近しい存在に向けられることを最も避けてきた感情だから。
逆光になっているはずなのに、その瞳がきらきら輝いているように見えて、衝動的に背中に腕を回して抱き寄せた。彼は反応できずバランスを崩すと、こちらへ横向きに倒れこむ。
「何を……」
「お前も……休んだほうがいい」
不思議と悪くない心地だった。特別温かくも冷たくもない、ひとの温もり。少し汗ばんだ額と髪の香り。ついさっきまでがさついていた心が、やわらかな何かに包まれていくような気がして目を閉じた。
「……サンクレッド……」
ウリエンジェはそれだけ呟いて、俺が離さないのを察するともぞもぞ動いてなんとか寝台に身体をおさめた。種族に関係なく使用できるよう作られた寝台は、それでもさすがに成人のヒューランとエレゼンが乗るには狭いが、とうぶん離す気にもなれないだろう。決して柔らかくない髪に頬を寄せ、夢見心地にその男の名を囁いた。