不定の体温

あたたかい。人はそれを肌で感じるだけでなく、心で感じることもあるのだと書物にあった。捜査資料以外のものを読むようになったのはもちろん最近であり、そもそも以前は証拠品でない紙の本に触れたことすらなかった。きっかけはマーカスに勧められたことで、彼はかつて所有者であった男の家で度々それを読んでいたらしい。別の話だが、同じアンドロイドでも役割が違えば生活もまるっきり違うということを、知識ではなく心で理解したのもそのときだった。
話を戻すと、僕はハンクの家にいる。前に訪れたのは事件の捜査のために彼を呼びにきたときだが、もうずいぶん昔のように思い出す。あれから数ヶ月が経った。世界が変わるには時間がかかるし、僕と彼の関係はあまり変わらない。また変異体が事件を起こして、その捜査の帰りだ。
……コナー、お前さん、風呂は入……るわけねえか」
濡れた白髪をタオルで乱暴に拭きながら、ハンクはバスルームから出てくるなり僕にそう言った。アンドロイドは入浴する必要がない。そんな当たり前のことさえ、この人はときどき気づかないのだ。アンドロイド嫌いのくせに、その嫌いの理由が理由だからなのかもしれないが、どこか中途半端で。初めはそんなところに興味を持ったのだけれど。
「って、なにしてんだ」
彼は僕の手元を見て顔をしかめる。その理由がひととき判らず、視線につられて下を見た。そこにあるのは先ほど彼がソファに脱ぎ捨てたコートだった。
「ああ。ハンガーに掛けようと思って……忘れていました」
「変異すると忘れ物もするようになるのか? 難儀なもんだ」
貸せ、と言って手を出してくるハンクにコートを渡すと、どこか一抹の寂しさのようなものが僕の手に残った。
「悪かったな」
その言葉が衣服を自分で片付けなかったことに対する謝罪だと気づくまで、彼の広い背中を眺めていた。相変わらずだらしない。しかしそれが人間というものだと思う。思うことができる。
なんとなく流れで家までついて来てしまったが、どうにも手持ち無沙汰だった。それはきっと暇なら来るかなどと軽い口調で誘った彼も同じであろうことは、わざわざ様子を見なくてもわかる。
彼はさっさとコートを仕舞ってくると、冷蔵庫から酒を持ってきて僕の隣にどっかり座ってテレビを点けた。心なしかその行動に不審さを感じ、軽くスキャンしてみれば少し心拍数の上昇が見られる。いったいどうしたのだろう、と声を掛けようとして、
「寒くなかったか」
と先に尋ねられた。アンドロイドは温度を感じない。確かに外はまた吹雪いていたが、そういった機能のついたものでなければ、特に気温について何か不満を持ったりはしないのだ。
「ええ……いいや。外が寒い、というより……此処が、暖かいというか」
そう考えたから、自分の言ったことが自分で一瞬理解できなかった。それに驚いて思わず隣を見ると、ハンクもまた驚いたように口を半開きにして僕を見ていた。
「言い出しといてなんだが……温度は感じないんだったよな」
「そのはず……ですが。ええと……なんと言ったらいいか」
不明確なことを言葉にするのは難しい。それは変異する前から同じだった。言葉は端的に伝えるようにとプログラムされていても、自分が理解していないものを簡単に言えるわけがない。それは変異を自覚してからも変わりなく、いつかハンクに言ってみたこともあったが、人間にも多々あることのようだ。人間に似せてつくられたものだから、違うところもあれば同じところもある。当たり前だけれど。
……家というのは。あたたかいのですね」
どうにか絞り出した言葉は、結局のところナンセンスな言葉であり。なんだか、マーカスも似たようなことを言っていたと思い出した。一般的に見れは、反抗期を過ぎた子どものような発言だ。
わけもなく隣を見ることができず、そんな風に思考をめぐらせていると頭の上に逞しい手が乗せられた。そしてわしゃわしゃと髪型が崩される。さすがに驚いて彼へ目を向けた。
「ああ……お前さんは俺のパートナーだ。どうせ戻るのはあのロクでもないサイバーライフだろ? いつでも帰ってきてかまわない」
スモウも気に入ってるみたいだしな、と喋る横顔はそんなことを言いながら照れくさいのか、こちらを見ようとしない。ハンクのそういう姿を見ると、無条件に笑みが溢れてしまう。
「珍しく素直ですね」
「お前に言われたくねえよ」
吐き捨てて、彼は酒壜を勢いよくあおった。それが不機嫌の証でないことはよくわかっている。人間は我々のように単純でなくて、実に興味深いと思う。変異体のアンドロイドも矛盾した行動を取ることはあるが、彼らほどに複雑ではない。
……では、生活の世話でもしましょうか」
「アンドロイド刑事が家事できんのか?」
「専用のプログラムをインストールすれば、十分に可能ですよ」
「それ、今はできないってことじゃねえか」
くく、とハンクは可笑しそうに笑った。彼と出会って僕は明らかに変化したが、彼も出会った頃より別人のように見える。こうして笑うことが多くなった。僕の存在が彼に影響を与えていると考えると、ブルーブラッドの流れが速くなったような錯覚を得る。消費エネルギーが増えるような。処理するべき情報が増えてしまったような、決して良い感覚ではないが悪いものでもなかった。

それから他愛ない話をして過ごし(多くは今日の事件に関するものだった)、そのうちに返事がないと思えばハンクは静かに舟をこいでいた。以前の僕なら躊躇なく起こしていただろうけれど、今はなんとなくそれがためらわれ、少し考えあぐねる。その結果、僕はやさしく彼を起こすと、肩を貸してなんとか寝室へ連れていった。あらためて実感したが彼の身体は重い。彼の望んだ不健康な生活の賜物だろうが、原因である心的外傷は治りつつあるのだろうから、いくらかは生活も矯正していかねば。などと、ベッドでいびきをかく中年男を眺めながら考えた。それにしても、以前見たものよりずっと安らかな寝顔だ。アルコールによる昏睡でないのだから、当たり前だけれど。
「明日は、しっかり起きてくださいよ」
……んが……
声をかけるも、まともな答えはない。部屋まで運んでくる間は生返事でもなにか言ってはいたが、完全に眠りについてしまったようだ。僕はその額に手を乗せ、闇の中で青白く光るような髪を撫でる。自分が先ほどそうされたように、あのときよりは繊細に、ゆるやかな動作で。なぜそうしたかは自分でもわからなかったが、どうしてか達成感らしきものを得ていた。満足感、というのだろうか。
「良い夢を、ハンク」
そのまま踵を返そうとすると、服の裾を引かれる。
……お前……ここにいろ。いいだろ……今日、くらい」
驚いて目を向ければ、彼は薄く瞳を開けていた。訥々と、眠いながら母親に懇願する子どもみたいに呟く。僕はあえて冷静ぶって答えた。
……それが命令なら」
「バカ言え……お前、従わねえ、じゃねえか」
く、とまた口の中で笑って、そこで力尽きたのだろう、腕は掴んだものを離してだらりとベッドの縁に垂れ下がった。確かに命令には従わなかったことばかりだが、それはその命令が任務に反するものばかりだったからに他ならない。
僕は少しメモリーを回想すると、その場に腰を下ろした。アンドロイドはわざわざ寝床で休む必要がない。これは今や大きなメリットのようにすら思える。こうして彼のすぐ側で何があったとしても迅速に対応することができるし、朝になったら正確に起こすことができる。彼は驚くだろうか? そしてまた理不尽に怒るのだろうか? それでもいい。喜ばれるだけがすべてじゃないと、知ることができたのだから。